【秋の特別セミナー】グローバル・キャリアへの挑戦



パネリストプロフィール:
坪内 南(つぼうち・みなみ)氏
一般財団法人教育支援グローバル基金 理事・事務局長 慶応義塾大学総合政策学部卒業。College Women’s Association Japan (CWAJ)及び日本/世界銀行共同大学院奨学金プログラムの奨学生として、マサチューセッツ工科大学都市計画修士課程修了。マッキンゼー・アンド・カンパニー、難民を助ける会カブール事務所駐在、世界経済フォーラム、バーレーン経済開発委員会などを経て、2011年6月より現職。

ファシリテーター:
アゴス・ジャパン代表取締役 横山 匡
以下イベント抜粋です。

さて本日は私が現在活動をおこなっているビヨンドトゥモローのことを中心にそれまでの経緯を今後の事も含めてお話させて頂きます。

私は海外にいた期間が長いので、ずっと外国に居たと思われることが多いのですが、実はとてもドメスティックな家庭に育ちました。 私は中学まで日本の学校に通って高校はカナダのトロントに留学をしました。大学は日本の大学へいきました。
日本での社会人生活の中でアフガニスタンの難民支援をしたり、アメリカの大学院にいったり、スイスのジュネーブにある世界経済フォーラムというダボス会議を運営している財団で働いたり、バーレーンで経済開発委員会というところで仕事をしたりしていました。 東日本大震災が起こってからは日本に戻って活動をしています。

生い立ち 小さいころ、私はとにかく外に興味のある子供でした。 まだオムツもとれていない頃に八百屋まで一人で買い物に行くと言って聞かなかったり、小学生の頃になると、電車で小田原のほうにある従兄弟の家に一人で行くといって聞かなかったりと、常に外の世界へ行きたがっている人間でした。

中学生になると、当時人気だったプチセブンという雑誌に載っていたホームステイ体験の影響をうけて海外へ行きたいと言い出すようになり、親は「何をいってるんだ?」という状況でしたが、行きたいと粘っていたら、「英語もできないし、1回いったらあきらめて帰ってくるだろう」という考えのもと、許可がでました。

その時にいったのがカナダのトロントで中学生を対象とした3週間のキャンプのようなプログラムでした。で、そこに行ったらすごく味をしめて帰ってきて、中学を中退して海外の学校に行きたいと言い出すようになりました。
当時1㌦160円とかで高い時代。今でこそ少し聞きますが、当時は中学を中退して海外留学をするということはありえない話でした。そこから2ヶ月程、親とのケンカがつづきました。 ケンカの最中にカナダのプログラムで知り合った先生にエアメールで学校に行きたい旨の連絡をしたらその先生が4校の資料を送ってくれました。 その中に願書も入っていたので、辞書を引きながら願書を送りました。すると日本人が珍しかったのか普通に合格通知がきました。

ケンカに疲れた両親がまた「英語もできないし、1年いったらあきらめて帰ってくるだろう」とまた両親も懲りないんですが・・・行かせてもらえることになりました。 これが中学校3年の夏のことです。

もちろん、その後1年で飽きるわけはなく、4年間カナダの高校に通うことになりました。日本では厳格なカトリックの女子校に通っていたので、カナダの学校は伸び伸びしていていいんじゃないかと親は腹をくくってくれ、卒業まで頑張ったら?と言ってくれました。

カナダでの4年間、プチセブンの雑誌にあった楽しいイメージで留学を考えていた私は現実と違う事にかなり打ちのめされました。雑誌には英語が出来なくても友達は作れるし学校1の人気者になれるとあったので期待していました。
実際私の言った地域は今考えても保守的な白人の多い地域で学校は全寮制で裕福な子が多かったです。自分が少数派にいるという現実。自分の個性や性格とは関係なくそういったことが起こっているということに衝撃を受けました。
日本人である自分や、アジア人である自分について考えさせられた時期でもありました。 そんな環境をみて私はもっと多くの人種が分け隔てなく居られる場所があるのではないかと探すようになりました。

探した中で、2年間奨学金付きで多くの人種が学べるインターナショナルスクールがビクトリアにあることが分かり、両親を説得して転校をすることにしました。 そこは70以上の国籍の学生が寝食をともにするような寮生活でした。
ここで衝撃的だったのはトロントとは逆に、ここではたくさんの人種が集まっていることによる問題というかチャレンジがあるんですよね。みんな違ったバックグラウンドを持った人がとにかく仲良くするというようなきれいごとじゃなかったんです。 その頃はユーゴ問題が大きくてセルビア人とクロアチア人の人たちが大喧嘩をしていたりして、そういった状況は刺激的でもありましたね。 若い頃にこういった制約というか課題を超えて個人的な関係を築く訓練をするというのは、大切な基盤になっていくのではないかなと今は思います。

それまでは常識だったり主流だった意見が自分のなかであったんですけが本当は常識や主流なんてないんですよね。ある人の常識が他の人の非常識になることもありますし。そういったことが日常でたくさんあったというのは今の自分の基盤になったと思います。

そこで2年間過ごして日本に帰り、慶応大学のSFCに入りました。4年間1人で海外にいたのでその時は日本に帰りたいと思っていましたね。
大学3年時にボストン大学の授業を履修した時にミャンマーの反政府軍のゲリラの人が殺されていく写真を見せられました。その時の先生が「世の中では本当に自由を求めて命を落としている人が要る。こういう人達が居る中であなた達のように勉強できるのは世界で一握りのエリート。きちんと教育を受けて安全な場所にいられるということの重要性、本当に数少ない人にしか与えられない特権をもって自分が何ができるかを考えなさい。」と言われ、何の為に自分は海外の高校に行ったのかと衝撃を受けてやっぱり世界で何かしないといけないと思いました。

先生の話を聞いた時には最短距離で途上国で働かねばと思ったのでそのとき見つけたのがマッキンゼーというコンサルティング会社でした。電話したら明日こいということで応用の効く会社でした。翌日受けて2週間後には決まっていました。
元々コンサルティングに興味があったわけではなく、でも周りはものすごく優秀で労働時間は長くて私は何の為に働いているのか。と涙涙の生活で辛かったです。でも周りの人は優秀で広い視野を持った人が多くて恵まれていました。それが今につながっていますね。
翌年2001年に9.11が起きました。世界貿易センタービルが崩れていくのをみて明日今日と同じ人生が保障されることはないことを痛感しました。だったらやっぱりその時その時悔いのないことをやっていないといけないと思って年末に会社を辞めようと決心して翌年4月に退職しました。

もともと思っていた途上国で働くにはどうしたらいいかと思い大学院に行こうと思いました。その前に途上国での経験があった方がいいと思い、ヤフーで検索したらとあるNGOが職員を募集してたんです。そこで1年働いて大学院へ行くつもりで考えていました。そのNGOから2002年1月に採用しますよ。でもアフガニスタンへ行ってください。と言われたんです。
まだ9.11の4か月後で空爆が続いていたので、そもそもアフガニスタンって行っていいの!?って思いました。いろいろ考えましたが、そういうとこで住んでいる人達のために自分は働きたいと決めたのでその人達がいるところに行けないのならば自分の職業観に嘘があるんじゃないかと思って2002年の4月に行きました。

でも実はすごく楽しかったんですね。結局1年半いることになったんですが大学院をやめてしばらくここにいようかなと思っちゃうくらいでした。結局アフガニスタンを出ようと思ったのはアメリカからイラクへの攻撃があったからでした。その時外国人は国外に避難するように指示されたんですが、その時に痛感したのがどんなに自分がアフガニスタンの人のために何かをしようと思っても、例えば地雷の危険性を教えたかったとしても、アフガニスタンとは全然関係ない次元の違うことで起きる事に制約になってしまい目の前にあることが出来ないことがあるということでした。

開発学を勉強しようと思ったんですがどんなにそこの開発を考えても開発に影響する違う次元のことを考えないと結局物事は進められないと思ったんですね。そこで都市計画という学問に出会いました。日本だと交通整備とか道路作ったりするイメージですがアメリカでは国や社会をどう作るかという学問なんです。これだ!と思って一度日本に帰国してアメリカに行こうと決めました。
Googleで都市計画のある学校を検索して水がある所でないと住みたくなかったので、海がある学校を残したら10校くらいになり、そこに願書を出しました。すごく短い時間で準備をして行ったのですが、その時行きたいという想いが強くてとにかく行く為の障害を乗り越えなきゃ行かないという発想でした。自分は絶対来年行くんだ!と思っていました。合格しないといけないししお金もどうにかしなきゃいけないし推薦状とかいろいろやらなきゃいけないことがあったんですが、とにかく実現する為にどうしたらいいかという発想でした。

資金を自分で調達したので勉強しなきゃという意識が強く、学ぶ事がすごく楽しかったです。最先端でいろんな勉強をしている人達がいる街でもあるので刺激的でしたね。大学院を修了してその後どうしようかと思った時に元々とっていた開発ってというのとは違う方向で考えるようになっていました。その時開発というのは途上国の問題に扱うもので、地球の問題を解決しないと途上国を含めた幸せは実現出来ないんじゃないかと思い、どういう仕事に就くが悩んでいました。
結局スイスのジェネーブにある世界経済フォーラムという所に就職しました。私はアフガニスタンにいたというバックグラウンドがあったのでアフガニスタン担当だったのですが、カルザイ大統領がくる時の会談のアレンジなどしていたのでカルザイ大統領と当時のパキスタンの大統領のムシャラフ大統領が会談する時にどんな話をしているのかとか、最初にどういう風に出会うのかとかそういう状況に接すことが出来たのはすごくエキサイティングでした。

そういうことをしているうちに中東アラブやイスラムの価値観は今後さらに重要になってくるのでグローバルにやるのならそういった国の価値観を理解したほうが良いというアドバイスをもらい、中東で働きたいと思いました。たまたま元マッキンゼーのアメリカ人女性がバーレーンの経済開発委員会の役員をやっていて、一緒に働く人を捜しているというのを聞きつけて応募してバーレーンで働く事になりました。バーレーンはサウジアラビアと凄く関係がある国で人口が100万人で島国です。産油国なのですが10年程でなくなるのではないかと言われています。世界から企業誘致をすることで経済の多角化で石油依存から脱却しようとしています。皇太子が経済開発委員会を設置していてそこにいきなり日本人が入るということで周りの人はびっくりしたと思います。私の担当はグローバルマーケティングコミュニケーションズと言ってバーレーンを世界のひとに知ってもらう仕事でした。

2011年2月に1万人のデモが起こり、夜中の3時に銃声で目が覚めました。政府軍がデモ隊の排除を始めてサウジアラビアからは戦車がきて家の周りは戦車で囲まれ、一週間外出できなかったです。目の前で自由を求めて声を上げた人が犠牲になるのを目の当たりにして、自分が経済開発委員会で政府側の組織にいることに対して葛藤がありました。今まで見てきたデモ隊に銃を向けるという判断をした政府の一員としてどうなのかなという状況の中、翌月に震災が起こり自分の国が大変という事態でした。状態的に混乱の中、震災に何か出来ないか?若い世代に投資するというプロジェクトがあってもいいんじゃないか?と考えるようになり、2011年6月に帰国しました。そして6月からビヨンドトゥモローを始めました。すごく長くなってしまいましたがここまでが前置きです。

ここからはビヨンドトゥモローの話で、このプロジェクトは何かというと東北被災地発のリーダーを育成するためのプロジェクトでコンセプトが、「すごく辛い想いをした人だからこそ果たせる役割がある。世界中で同じくらいもしくはそれ以上困っている人がいるのではないかという想いを馳せて自分が行動を起こせる世代を作っていこう。」というものです。

何をやっているかというと奨学金の提供というものをやっていまして日本の中で大学に進学する奨学金を支援したり高校留学を支援したりもしています。何人かは海外の大学進学を目指してアゴスジャパンに通っている人もいます。その他にもリーダーシッププログラムといって学生を海外に派遣するプログラムがあり、アメリカやヨーロッパで学んだ事を今後復興に活かしていくのかということを考える2週間の研修プログラムです。日本と向き合うという事で東北未来リーダーズサミットで60名ほどの学生が集まって東北の復興について提言をまとめてリーダー達の前で発表したりですとかリーダーシップ アカデミー スプリングプログラムといってこれから進学する学生達がコレから1年間東北発の自分として何をしたいかというのを考えたり、他には被災地に海外の学生達を呼んで一緒に震災を追体験してどのようなことを世界に伝えていきたいかを考えたりしています。いろんな分野の方々が参加して学生と対話してくれるので学生達からしても実際リーダといってもどういった人を目指し、そしてそこにたどり着くにはどういった過程があるのか?というのを直に学べる機会が得られます。

こういうところにきて仲間達と出会いそしてリーダー達と対話をすることで自分自身の人生のビジョンだったり、何を自分の役割として捉えていくのかという考えが開ける場であります。

来年の3月で震災から3年になりますので学生達は節目を強く意識しています。やっぱり3年経つと震災のことを忘れている人達が多い中で、10月のビヨンドトゥモロー東北未来リーダーズサミット2013が自分達が残していかないと行けない物はなんなのかということを考える場になればいいと思います。

Q. グローバルで働く上でどんなスキルがあればいいですか?グローバルに行くときにどういう壁がありますか?
A. 海外で働くという事とグローバルとは違います。海外で働くならば世界を視野に入れなくても可能です。
日本語教師や日本の駐在員などありますが、職種というより自分のマインドセットの問題です。海外で働くならば日本でやってることの延長線上なので場所が引っ越すだけです。どこかにいって日本人だから日本のことを仕事にするって言うのは割とできるんです。大学院を卒業する辺りから日本人だからこの仕事をしているわけではなく世界の仕事をしたいと思うようになりました。日本とは関係のない仕事をしたいと思ったんですね。最初は世界経済フォーラムのダボス会議の仕事についたときには日本の企業担当ということで入ったんですね。そうなるとやっぱり自分が日本人で日本語ができて日本の事を知ってるからそういう仕事ができて、それは決して悪い事じゃなくて自分の強みで活かしていけばいいんですけど一方で日本人じゃなくても出来る仕事をしたいと思うようになったんです。バーレーンの仕事は日本人じゃなくても出来る仕事でした。そこにたどりつくためにはハードルがあって、それがアメリカ人イギリス人と同じくらい壁なく世界の事象をまとめるかということ。日本からみた中国やシリアじゃなくて世界からみたときにそこで何が起きているかという視点というのが大事です。日経新聞を読んだ時に国際情勢がいかに日本の視点から欠かれている事に衝撃を受けました。日本から見た中東は危ないは当たり前でもヨーロッパからみた中東は一番近い外国で日本から見たアジアと同じなんです。空気感や距離感を身につけるのが大事ですね。

Q. 行く前に思っていたイメージとのギャップ
A. 途上国にいくのは初めてですごくギャップがありました。行く前って今みなさんがアフガニスタンとかシリアと聞いて想像することと一緒で、すごい覚悟で行ったが普通すぎてびっくりしました。ソニーのテレビもトイレもある。困っていて貧しくてずっとそう言う人もいるけど前は普通の生活をしていて一瞬そうなってまた戻る人もいるので一概にイメージで人をくくれないですね。被災者はみんなしょんぼりして困っているイメージですが、震災前は普通の生活を送っていたので必ずしも世の中の人が思う被災者の顔をして生きている訳でないんです。本人の人は違和感を感じていて世の中は被災者と言っている自分はそうでもないってこともあります。ある男子学生の話なんですが、両親が亡くなって遺体がみつからないという状況でした。でも家に帰れば漫画読んで普通に寝るしすごくリアルなんです。世の中のイメージは遺体安置所を回って泣きくれるという感じですよね。アフガニスタンでも助けを求めてる中でティータイムがあってお菓子がでてくるんです。行く前の覚悟はいらなかったですね。どこだって人の生活があるんだと思えるようになって、どこにいくのも気楽になれました。恐怖感というかバリアを取り除いてくれましたね。

Q.日本にいながらグローバルに考えてくうえでの情報収集方法。
A. フィナンシャルタイムズはいいですね。BBCも見ていました。名前を覚えていないんですが、アカデミー賞のCGのコンピューターグラフィックで優勝した日本人のブログを読んでいました。自分の生い立ちとか日本人だからとか日本人の考え方でぶち当たる壁を書いていて面白いので海外で仕事するならぜひ。

■最後にメッセージをお願いします

留学はどんな領域であっても絶対したら良いと思います。自分の活動の場や視野を広げると思うので。みなさんの状況は様々ですが、して損することはないです。いろんな障害を乗り越えていくと決めて後はなんとかすることは出来ると思います。是非実現してください。